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TEACH IN MOVIES 第2回『蜜蜂と遠雷』前編
2020.07.29
「TEACH-IN MOVIES」へようこそ。
突然ですが、あなたはティーチインという言葉を聞いたことはありますか? 試写会で行われる、一般の観客と映画関係者が質疑応答をすることを指すこの言葉ですが、本来の意味は少し違います。
ティーチイン【teach-in】
学内討論会。政治・社会問題について学生と教師が研究・討議する集まり。また、一般に
討論集会。(三省堂・大辞林第三版より)
そんな本来の意味を損なわずに、現在使われている意味と掛け合わせてしまおうというのがこのコーナー。名付けて「TEACH-IN MOVIES」。
毎回、映画に関連する教授と学生をゲストに招き、討論会を行います。
今回のテーマは『蜜蜂と遠雷』(2019年)。
国際ピアノコンクールを舞台に、世界を目指す若き4人のピアニストたちの挑戦、苦悩、そして成長を描く。原作は、史上初の快挙となる第156回直木賞(2017年)と第14回本屋大賞(2017年)のW受賞を果たした恩田陸氏の同名小説。本映画は、劇中の楽曲の美しさと俳優陣の演技力が高く評価され、第43回日本アカデミー賞(2019)において、6部門で優秀賞と新人俳優賞を受賞した。
今回は映画に関係する要素を持つ以下の2名のゲストに集まっていただきました。
◆教員ゲスト
赤塚健太郎先生
芸術学科所属准教授。音楽学を専門に持ち、バロック時代の舞踏、舞曲と当時の演奏習慣について研究を行っている。
「私は、文芸学部芸術学科の音楽学担当なんですが、専門はバロック音楽という17世紀から18世紀前半の音楽です。この頃は、ピアノの祖型がようやく発明された時代なんですね。ちなみに私自身ピアノは弾けません。映画との関連でいうと、以前勤めてた音楽大学が今回の映画の舞台として使われてるんだよね。コンクールの舞台になってるのが、その大学のホールで懐かしいなと思いながら観てました(笑)。」
◆特別ゲスト
鈴木さん
成城大学大学院の卒業生。
「私は4歳のときからピアノをやっていて、音大ではピアノ専攻を卒業しました。大学3年生から音楽学も副専攻で勉強していて、その関係で成城の大学院へ進学し、修士課程を修了しました。今回の映画にも、オーケストラにバイオリンで参加してた友だちがいて、エンドロールで名前が出てきて、あれ?って思って(笑)。いまは社会人として、音楽に近い仕事をしながら、趣味としてピアノを弾いています。」
◆司会
種石
マスコミュニケーション学科所属3年生。
「私は小学生のときにピアノを習ってたんですけど。「エリーゼのために」を弾けたらやめようって思っていて。5年生のときに弾けるようになったのでやめました(笑)。なので音楽の知識はほとんどなくて楽譜が読める程度です。」
この映画を心から楽しめたという人も、あるいは全然楽しめなかったという人も、ゲストたちの話を聞くことで新たな面白さを発見したり、自分の抱いた感想の正体を知ることができるかもしれません。
※本文中では『蜜蜂と遠雷』についてのネタバレがあります。
それでは、「『蜜蜂と遠雷』前編」ティーチイン‼
Chapter:0ーーイントロダクション
◆『蜜蜂と遠雷』あらすじ
3年に一度開催され、若手ピアニストの登竜門として注目される芳ヶ江国際ピアノコンクール。
かつて天才少女と言われ、その将来を嘱望されるも、7年前、母親の死をきっかけに表舞台から消えていた栄伝亜夜は、再起をかけ、自分の音を探しに、コンクールに挑む。
そしてそこで、3人のコンテスタントと出会う。岩手の楽器店で働くかたわら、夢を諦めず、“生活者の音楽”を掲げ、年齢制限ギリギリで最後のコンクールに挑むサラリーマン奏者、高島明石。幼少の頃、亜夜と共にピアノを学び、いまは名門ジュリアード音楽院に在学し、人気実力を兼ね備えた優勝大本命のマサル・カルロス・レヴィ・アナトール。
そして、今は亡き“ピアノの神様”の推薦状を持ち、突如として現れた謎の少年、風間塵。国際コンクールの熾烈な戦いを通し、ライバルたちと互いに刺激し合う中で、亜夜は、かつての自分の音楽と向き合うことになる。果たして亜夜は、まだ音楽の神様に愛されているのか。そして、最後に勝つのは誰か?(公式サイトより)
◆本記事に登場する主なキャラクター(各紹介文は公式サイトより)
・栄伝亜夜
将来を嘱望されていた天才少女だったが、母親の死をきっかけに表舞台から消えていた。今回のコンクールに再起をかける。
・高島明石
楽器店勤務し、妻と息子と暮らすサラリーマン。自身の夢を諦めきれず、「生活者の音楽」を掲げて年齢制限ギリギリで最後のコンクールに挑む。
・マサル・カルロス・レヴィ・アナトール
今回のコンクールの大本命。そのルックスと育ちの良さから「ジュリアード王子」と呼ばれる。日本に住んでいたことがあり、亜夜と一緒にピアノを学んでいた。
・風間塵
養蜂家の息子で、正規の音楽教育を受けておらず、自宅にピアノすらない少年。今は亡き著名なピアニスト・ホフマンに見いだされ、コンクールに送り込まれた。
Chapter:1――コンクールとしてのリアル
種石:普段から音楽に関わっているお二人がご覧になって、映画『蜜蜂と遠雷』はいかがでしたか?
赤塚:映画という限られた尺のなかで、複数日にわたるコンクールっていうものが非常によく詰め込まれてるなって感じがしました。1次予選とかってほとんど演奏シーンを映してないんですよね。あえて映さないことで時間の短縮にもなるだろうし、何があったんだろうって想像を掻き立てることもできる。その組み立てが非常に上手だなと思いましたね。コンクールとしてのリアリティだなんだって話をし出すと荒唐無稽なところもあるだろうし、リアルではないところもあるんだけど、それっぽいものを作るってところでは成功してると思いました。

▲鈴木さん
鈴木:私はすごくリアルだなと思って観てました。今まで観てきた音楽系の映画は、きれいごとが多かったりして、正直見てられないなって思うものが多かったんですけど、今回の映画は、美化されていなくて、シンパシーを感じるところとかもあって、初めて観ていてつらいと感じました。
種石:リアルすぎて感情移入してしまったということですか?
鈴木:なんというか、日常を見てる感じ。マサルが言われてた「ホロヴィッツ 1 になったつもりか」とかは、私も同じようなことをレッスンで言われました。「男と女じゃ体のつくり方が違うんだから、それはあなたには無理よ」みたいなことも普通に言われましたね。
種石:ピアノの弾き方に男女の違いがあるんですか?
鈴木:座り方とかですね。筋肉量がそもそも違うので、椅子の高さでかかる力が変わってきたりします。ホロヴィッツの椅子の高さは低くて、女性には向かないんです。今回の場合は見せる弾き方って意味で正統派の演奏をしろっていう注意を受けていたので、それは私が言われてた「試験向きにひきなさい」っていうところと重なって、リアルだなって思いました。
種石:そこでリアルを感じるんですね(笑)。やっぱり音楽をやってる人とやってない人では見え方が全然違いますね。劇中の選曲に関しては何か感じましたか?
赤塚:映画は小説と少し変えたりしてますよね。本選でマサルと亜夜が弾く曲が入れ替わってたりだとか。映画としての見栄えを意識したんだろうなと思います。選曲という点で言うと、あまりリアルでないかもしれない。というのもコンクールでバッハの『平均律』のプレリュード2 なんかは弾かないよね。
鈴木:そうですね。
種石:そうなんですか? 全然わからない……(笑)。どういう意味で予選向きでない曲なんですか?
鈴木:コンクールは、いかに自分のテクニックが見せられるかってところに焦点が当てられるので、聞き映えがしない曲だったり、自分のテクニックが出せない曲っていうのは聞いていてきれいな曲ではないんです。あとは聞きなれてしまっている曲もそうですね。そういった意味であまりコンクール向きではない曲っていうのはありますね。
赤塚:コンクールの課題曲の中にカデンツァ3の即興があるっていうのも普通はないよね。
鈴木:ないですね。
種石:言われないと全然わからないですね。すごく引き込まれる場面だなと思ったんですけど。
赤塚:あのシーンはそれぞれの登場人物の音楽観とか個性っていうのが垣間見えるという点で、すごくよかったと思うし、小説の設定をうまく実際の曲に仕立て上げた藤倉さん4が大したものだなと。私はピアノの演奏を聴いてそれぞれの個性が分かるほどピアノに通じてないので、4人のそれぞれの役者についたピアニストの個性みたいなところまできちんと感じとることはできなかったんだけど、曲がかなりわかりやすく作られていて、ストーリーにはまっててよかったんじゃないかと思いましたね。
種石:私、てっきり実際に役者さんたちが弾いてるのかと思ってました。
赤塚:音は別で録音したんだろうけど、役者さんたちが手を動かしてるシーンもありましたよね。ある雑誌のインタビューの中でも、役者さんたちがずいぶんピアノの練習をしましたみたいなことが書かれていたので、役者さんっていうのも大変だなと思いましたね。
種石:そうですよね。一回も弾いたことがないのにっていう(笑)。
赤塚:あとは、細かいところで言うと、子どものころの回想でお母さんとショパンを弾くときってさ、あれハ長調5で弾いてるんだよね。ほんとは調号がたくさん付く曲なんだけれど、それを子供が弾くとなるとかなり大変で。でもハ長調にすれば調号のフラットとかシャープとかがつかないので、譜面上は弾きやすくなるんですよね。ほんとにピアノの技術上弾きやすいかは別問題として。たぶん子供が弾いてるってことを意識してシンプルなハ長調にしたんだろうなと。
種石:すごい凝ってますね。
赤塚:そういうところはすごく考えて作られてると思います。
種石:明石がカデンツァで弾いていた「春と修羅」6は家族との日常生活の中から生まれたメロディなだけあって、結構分かりやすいなと思ったんですけど、そういう曲をコンクールで弾くことはあるんですか?
鈴木:いや、やっぱり分かりやすくてきれいなものってコンクールだと通らないんですよね。明石は「生活者の音楽」っていう風に言ってましたけど大きな隔たりがあるなと思いました。
赤塚:結局のところ、「生活者の音楽」をやるんだったら、コンクールに出ないのが筋が通るわけでね。コンクールっていうのは悪い意味で言えば、プロがやる見世物のための音楽を評価する場ですから、そこに「生活者の音楽」をもって乗り込んでくるっていうのはちょっと方向がずれてるのかなって思いましたけどね。
鈴木:働いてる私からすれば、楽器店に勤めてる時点で音楽の世界に入ってると思いますし、あれだけ練習時間を確保できたら全然生活者じゃないと思います。
赤塚:一年前くらいから準備をして、ピアノを弾いてっていうのはね、職場とか家族のよほどの理解がないとありえないよね。
鈴木:そこはずっと弾き続けてる音大生みたいな人を念頭に置いての生活者なのか、その定義がわからなかったっていうのもありますね。
種石:結構恵まれてますよね、彼は生活者ではなかったという(笑)。
赤塚:あるいはピアノ弾きっていうのも一種の生活者なのかもしれないけどね。
赤塚:「生活者の音楽」っていうのも理念としてはありきたりなものだけど、音楽とは違うことで飯食えるようにしときながら、一方でかなりの時間と労力を音楽につぎ込める生き方っていうのは、今後、音楽を考える上で重要な在り方なんじゃないかなと思います。私も仕事で音楽の研究をやってるので、音楽と完全に無縁とは言えないんだけど、趣味として、仲間たちとアマチュアで演奏していてね。
種石:それはなぜなんですか?
赤塚:人によっていろいろ意見はあるんだけど、作曲も演奏もそのうち生身の人間の手を離れていくのは目に見えてると私は思ってるので、そうしたときに、いままで以上に音楽を自分でやるっていうことが重要になってくると思うんですよね。
種石:AIとかに代替されていってしまうということですか?
赤塚:そうですね。囲碁だろうが将棋だろうができてしまうわけですから、音楽だってできると思うんですよ。今後、聞くための音楽を作るっていうのは、かなりAIに置き換えられていくと思うんです。だけど、自分で手を動かして、体を動かして、頭を使って音を出すっていう、その快感自体はね、絶対にAIには代替できないですから、音楽はそっちの方向に活路を見出していくしかないんだろうなと思います。話題としてはありきたりだけど、ある意味現代における重要性が高まっている側面が明石には描かれてるなあという気がしましたね。
種石:彼らのようなクラシック音楽家は今後AIにとって代わられてしまう可能もあるということですか?
鈴木:いや、いまは逆にライブとかコンサートの需要が高まってきてるので、エンターテイメント的な人はこれからの時代重宝されるだろうなと思いますね。単純にきれいな演奏というだけではなくって、お客さんを引き込んで圧倒できる人。そういうスター性を持った人の演奏を聴きに行くか、自分で楽しむかみたいな感じになっていくのかなと思います。いろいろ淘汰されていくんだろうなと……。
赤塚:あるいはAIがやってるのか、生身の人間がやってるのか判別できない時代が来るかもしれないですね。この映画もさ、彼ら自身が弾いてるように見えるわけでしょ。よく考えればそんなことないってわかるんだけど、映像で見せられればそれっぽく感じるように編集されちゃってるわけじゃない。やっぱり演奏シーンは音を別撮りでやろうとね、人間の動きがついてることに圧倒的説得力がありますよね。
種石:まさかここでAIの話が聞けるとは思わなかったですけど……。
赤塚:これ実は私の研究とも関連するんだけど、音楽は音の芸術だっていうのは全くの嘘だと思っていて。見た目も触覚もすべて含めた上での芸術だと思っているんですよ。そういう点で言うと、本当は音と映像が別々に撮影されてるはずなのに、なんで映画の演奏シーンにこんなに説得力を感じるんだろうとか、迫力を感じるんだろうとか、そういうことも感じながら観ると、音楽の捉え直しができるんじゃないかなという気がしますね。

▲赤塚先生
前編ではコンサート場面のリアリティから音楽とAIの未来まで、幅広く語っていただきました。専門分野だからこそ見えてくる気づきや面白さの一端を知ることができたのではないでしょうか。
現代に求められるピアニスト像、そして好きなことを仕事にする苦悩……。
3人のお話はまだまだ続きます。
それでは、次回「『蜜蜂と遠雷』(後編)」でまたお会いしましょう。
- ウラディミール・ホロヴィッツ(1903~1989)20世紀を代表するピアニスト
- ヨハン・ゼバスティアン・バッハ作曲、『平均律クラヴィーア曲集』 第1集 第1番 BWV846よりプレリュード
- 一般に、独奏協奏曲やオペラ等のアリアにあって、独奏楽器や独唱者がオーケストラの伴奏を伴わずに自由に即興的な演奏・歌唱をする部分のこと
- 藤倉大。日本の現代音楽の作曲家。数々の作曲賞を受賞。ザルツブルク音楽祭、ルツェルン音楽祭、シモン・ボリバル響等から作曲を依頼され、共同委嘱は多数。『蜜蜂と遠雷』では「春と修羅」の作曲を手掛けた
- 西洋音楽における調のひとつで、ハ (C) 音を主音とする長調である
- 宮沢賢治の詩集である『春と修羅』をモチーフにした即興曲。劇中では明石が「あめゆじゅとてちてけんじゃ」の一節を音で表現した演奏をする