読みもの
町とNew Me! 第1回 「成城のなりたち」
2020.05.01
いつも通っている町なのに、そこには知らないことがたくさんある。
身近な町をもっと知れば、きっと自分の世界が広がるはず。
みなさん、はじめまして。えりかです。
学生の目線で、身近な町の知らない素顔を紹介していく連載「町とNew Me!」。毎回、町の魅力あるポイントをピックアップしていきます!
第1回目のテーマは、ずばり、“成城のなりたち”。今では閑静な住宅街のイメージが強いですが、実は映画と深い繋がりを持つ文化的な歴史のある町なのです。
いったい、“成城”と“映画”にどんな繋がりがあるのでしょうか?
本学学生部の高田雅彦さんによれば、その背景には、あるふたつの重要な動きがありました。
まずひとつめは、1925年、成城学園が新宿の牛込原町から、砧村喜多見台と呼ばれていた現在の成城の地に移転してきたこと。陸軍軍人の養成と中国留学生の教育のために創設された成城中学校(現在の私立成城中学校・高等学校)の校地を借りて開校した成城小学校と中学校(現在の学校法人成城学園)が、新天地を求めて引っ越してきたのです。

▲開学当時の成城学園正門
そしてふたつめは、その7年後の1932年、現在の東宝の前身である「写真化学研究所(Photo Chemical Laboratory 略してP.C.L.)」の本格的トーキー(注1)専用スタジオが成城に完成したこと。P.C.L.は、トーキー技術を開発する専門会社で、ロサンゼルス・オリンピックを報じるニュース映画の実況録音版にも一役買っており、「P.C.L.方式」という録音システムは高い評価を得ていました。

「学園の移転」と「P.C.L.スタジオの完成」が、この町の歴史において重要な出来事でした。
でもよく考えてみれば、なぜP.C.L.はわざわざ成城の町にやってきたのでしょうか……?
その裏には、植村泰二さんという方の個人的な理由が関係していました。
植村泰二さんは、P.C.L.の創立者であり初代社長となった方で、彼がP.C.L.を成城の地に作りました。
実はその理由は、泰二さんのご令嬢の泰子さんが成城学園に通っていたからだったのです。泰二さんは、自分の長女が通う学校の近くにスタジオを建てたかった……。歴史は、思わぬ縁がきっかけで作られることもあるのかもしれません。
成城にP.C.L.がやってきて、のちに東宝スタジオになり、たくさんの映画関係者が住む町になりました。世界の映画史を語るには欠かせない名監督・黒澤明や、俳優・三船敏郎もかつてこの町に住み、今でも多くの著名人や芸能人が住んでいます。映画人たちが歩き、映画に愛されたこの町に、学生として通えるなんて、なかなかない体験なのです!
かつては、映画を撮るための機材は今ほどコンパクトではなく、長距離の移動はなかなか難しいものでした。そのため、東宝スタジオのあった成城はロケ地としてもたくさん使われています。なんとその数は、現在わかっているだけで、約150本!成城学園キャンパス内で取られた映画も多くあります。
映画「夢のハワイで盆踊り」では、現在とほぼ変わらない姿の二号館が写るシーンが! ぜひ探してみてください。
これらの映画を観れば、大学の建物のかつての姿を見ることができます。
写真よりも映画の中に町の記録が生きていて、映画を通して、奥行きある町の姿を感じられるのです。こんな町、他にない!なんて素晴らしいのでしょう!
成城学園と映画、そしてその繋がりは、この町にとって切っても切り離せない重要なものです。偶然(と少しの個人的な理由)のなんとも素敵な産物が、学園都市と映画の町・成城なのです。
続く第2回目では、今も成城の南側に広大な敷地を有しさまざまな話題の映画が撮られている、成城の歴史に深く関わった東宝スタジオについてご紹介します。
“世界最高水準のポストプロダクションスタジオ”とはどんな施設なのでしょうか? 次回もお楽しみに!
注1: (英:talkie)音や声の出る映画。発声映画。
ご協力:
成城大学学生部 高田雅彦さま
参考文献:
高田雅彦,2017『成城映画散歩』白桃書房.
中江泰子・井上美子,1996『私たちの成城物語』河出書房新社.
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